橘ありすが失い、手に入れたもの

先に断っておきます。

今回のありすのSSRを手に入れ台詞やコミュを見たわけではありません。

なので今から述べることはまったくの検討違いかもしれません。

TLで断片的に得た情報から思い考えたことです。

橘ありすPでもない自分がこれを書こうと思った程に今回のありすにとてもとても衝撃を受けました。










自分が好んでよく使う言葉に「キャラクター」というものがあります。
一般的な''キャラ''のことではなく特長、形質とかの意味での''キャラクター''ですね。

キャラクターの内面のキャラクターは2種類あると思ってます。

外向型と内向型


外向型は対象が外に向けての特長。

橘ありすでいえば

・ゲームが好き
・いちごが好き
・歌や音楽に関係する職業に憧憬がある

などがすぐに挙げられるかと。


それに対して内向型のキャラクター、それが橘ありすは自分の名前にコンプレックスがあることだ。

「橘と呼んでください。」

彼女はありすと呼ばれることを嫌う。

例え許すことがあってもそのとき限りか、特定の誰かだけだったり。

橘ありすというキャラクターを形造る上での重要なファクターなのである。


なのであった。











いつかありすが「ありす」に向き合うときが来るとは思っていた。けどそのいつかは決してこないだろうと思っていた。

橘ありすは成長し年を重ね大人になっていく。そのどこかで必ず名前と向き合うときが訪れるだろう。

けれど彼女はゲームの中の存在だ。
我々が見ることができる「橘ありす」は例え何年経っても12才の彼女なのである。

決して年を取ることはない。

今の、12才の彼女が向き合う必要はあるのだろうか。

必要ないかもしれない。

だってそれが彼女のキャラクターなのだから。




だからこそ今回のできごとに衝撃を受けた。

橘ありすが自身の名前に向き合い、そして受け入れた。

成長したとかそんな次元ではない。


それは彼女のキャラクターをひとつ失うことになるのだから。





キャラクターたちはよく成長する。

自身の後ろ向きな気持ちが、仲間やファンやPたちを通して前に向いたりする。

けれども次のときはまた同じようなことに悩みそのたびに解決したりする。


アニメならひとつのストーリーを線として繋がっているが、デレステモバマスなら点でしかないことも多いのだ。


橘ありすが失い、そして得たキャラクターは線となりこの先も続いていくのか。

それともただの点にすぎないのか。


この先の彼女が楽しみである。